悔恨

悔恨の念に捕らわれることがたまにある。頭のなかで過去の恥辱が反芻される。今思えばなんてこともないことが、当時の私にとってはなかなか払拭することも出来ず、そうしようとする意思さえ芽生えないような状況にあったことを明瞭に想起させる。まるで醒めない夢でもみているかの如く、私の想念に拭いきれない不の小さな思い出が散在していた。生きることへの無気力を纏った私は、ただただ流れる時間と空間と人間のあいだの順当な摩擦を一切生じさせることもなく、ただただ呼吸をしていた。何故そうなったのかを考えてみるとそれなりに私も理屈があったことを思い出す。単純に恐ろしかったのだ、裏切りが。小学生の頃から自分に自信がもてず、漠然とした無力感が私を抱いて放さなかった。だから、本気になることや心を開くこともできない脆弱しきった心身は、斜に構えた姿勢を崩すことなく、厭世的価値観で世界と対峙した。そうした心境でおくった学生生活の端々を思い返せば、憂愁の念に駆られるてゆく。しかし、私は時として気づかされる、こうした悲劇性のなかにこそある悲壮美、映画や詩や心理学の美しさに。私の心が求めて止まぬ数多の死ねない理由は悔恨の念とともに創りあげられているのだ。それが分かればもう恐れることなどない。